初めての方もそうでない方もこんばんは、太子だよ。
この挨拶するの久々な気がするな。
この挨拶が出てくるってことは僕が比較的安定しているって事だと思って欲しい。
文末にちゃんと。も付けている。
相変わらず推敲なんかもうしないけど、ソワソワに身を任せて1万文字を書き殴った昨日とは違い、今日はよりしっかり自分と向き合って見ようと思う。
こいつ毎日自分と向き合ってんな。
さて、本題に入ろうか。
うわ物騒なタイトルだな、と思われたかもしれないが我ながら興味をそそられるタイトルでもあるのでは無いかと思う。
僕も今から自分の内面に潜ると思うと昨日とは違うソワ付き、ドキワクを感じる。ふふ
とりあえずはどうやってこの一見物騒にも思える事に気付いたかを書いていきたい。
僕は先ほどHSP専門カウンセラーの武田友紀さんの著書、『「繊細さん」の幸せリスト』を読了した。
これはTwitterでも熱量のままに書いてしまったが最高の本だった。
メルカリで買ってしまったのが悔やまれる。
育ち方もあってかなりどケチな僕だが、これはご本人にお金を届けたかったと思わざるを得ない程最高だった。
僕の語彙力は乏しい。
普段偏屈で何にも興味持てねぇ〜〜〜とかほざいてる僕が最高だ最高だ連発してるってことはそういう事だとふんわり察して欲しい。
とにかく最高だった。
終始ふんわりした優しいイラストと共に暖かく包み込んでくれるかのような文が続いていて注意力散漫or過集中の僕でもしゅんしゅん読めたのだが、一つだけ、一つだけ引っかかることがあった。
それは同じ著者の方が書かれた『「繊細さん」の本』を読んだ時にもあった。
最高の本の何処に引っかかったのかと言うと、
毎日の幸せを存分に味わえる生き方へ。
この一文だ。
いや、ここも最高やんこここそ最高やん。と思われる方も居るかもしれない。
しかし僕はこの一文を見るとゾワゾワしてしまうのだ。
このゾワゾワというのはきもちわりー!とかそういう意味ではない。
とても焦るし肌触りが悪い感じがするのだ。
ゴワゴワした灰色のタオル越しに背中を押されているようなイメージ、と言って伝わるか分からないがとにかく僕はあまり良くない気持ちになってしまう。
僕が読んだ2つの本、後者に上げた方が出てくる回数が多かったように思う。
だから僕は今日読了した本の方により魅力を感じ、合っていると思ったのだろう。
それで。
何故ゾワゾワしたかについて考察をしてみる。
恐らく僕は恐れている。
「毎日の幸せを存分に味わえる生き方」を自分が良しとしてしまうのを恐れているのだ。
そう、僕はこの生き方をしたくない。
僕は多分「小市民的幸福」を良しとしないのだ。
語彙の乏しい僕が突然「小市民的幸福」とか小難しい言葉を使い出したが、この言葉は三島事件の記事を読んで知った。
三島事件とは文豪の三島由紀夫が公衆の面前で割腹自殺をした事件である。
憲法改正の為に自衛隊のクーデターを呼び掛けた後の自殺だった。
詳しいことはWikipediaを読んで欲しい。
僕もそこで「小市民的幸福」という言葉を知った。
こんなことを言うとお前は近代日本文学にも興味があるのか?と思われるかもしれないが僕はあまり興味はない。
いや、嘘だ。興味はある。
ただ僕は難解なものが読めない。
夏目漱石の吾輩は猫であるを読もうとして挫折して以来、全然手を出せていない。
しかし僕は文豪への興味からこの三島事件の記事に辿り着いたのではない。
僕は気分が最高潮に最悪に落ち込んだ時、ひたすら自殺した有名人を調べてしまうという気味悪くかつともすれば不謹慎な癖があるのだ。
トレンドで「○○が自殺した」のような記事があると飛ばずには居られない。
僕は何故だか死に関する記事に惹かれてしまうのだ。
それは死にたいと言う気持ちがほぼ常にあるから、と言えばそうかもしれないが、僕はそんなに真面目に自殺を考えていない。
何故なら怖いからだ。
僕は高校時代は今よりもっともっと真剣に自殺について考えていたが、結局勇気がなかった。
今ならいける!と死のうとしたこともあったが、同居人に止められてしまった。
それに関しては正直少し複雑な気持ちだ。
僕はかなりの臆病者なので今だ!という衝動を逃せば死ねない。
そして死なずに生きていてやっぱり苦しいこともかなり多いのであの時死なせて欲しかった、という恨めしい気持ちが少しはあったりする。
ここまで書くと「死」への憧れも何もただの死にたい人じゃん!となってしまうと思うが、ちょっと待って欲しい。
違うんだ。
これを書いている僕は今比較的冷静でそんなに死にたいとも思ってない。
それでも僕はやはり三島由紀夫然り自殺されてしまった方に惹かれてしまう。
それは僕の中に「死んで伝説になりたい」という憧れがあるからだと思う。
「存命時から伝説のような存在で、死を自分で選ぶ、つまり自分の伝説を自分で終わらせる」
という姿を僕は何故だか美しいと思ってしまう。
そう、僕は三島由紀夫の生涯をWikipediaで知り、憧れてしまったのだ。
Wikipediaだけで何を知った気に、とは自分でも思うのだけど、僕の感性は揺さぶられてしまったのだから許してほしい。
僕は出典、とか引用、とかどう使えばいいのか分からないのでとりあえずこの記事の最後にはWikipediaのリンクを貼る、それで許してくれ。
そして僕は若くして自殺を選んでしまった方に尚のこと憧れてしまう。
それは僕が老いが怖いからだ。
話は変わるが、僕の祖父は癌で死んでしまった。
数年間闘病し、最後は自宅で息を引き取った。
人は死ぬ時、一気に冷たくなる訳では無いことを知った。
段々冷たくなっていくのだ。
まだ生があるのに、体からは熱が奪われていくのだ。
家族に囲まれて亡くなった祖父が幸せだったのかは分からない。
僕は祖父ではないから。
でも、僕は必死に祖父を笑わせた。
今にも逝ってしまうであろう祖父に、僕は冗談を飛ばし続けた。
周りは皆「逝かないで」と泣いていたが、僕は何故かその時「僕だけは笑顔にさせてあげないといけない」と強い使命を感じた。
僕は、闘病中の祖父に会うことを嫌がっていた。
当時高校在学中で精神が極端に不安定だった。
そんな時に、普段は敵でしかないと思っていた母が泣きながら「祖父が癌だ」と告げてきた。
僕は、耐えられなかった。
どう言葉を返したのか全く覚えていないが、顔を背けたのだけは覚えている。
そして、心の中で「どうせ死んでしまうなら早く死んでくれ」と思ってしまった。
このことは、今も僕は思い出すと複雑な気持ちになる。
意外だろうかもしれないが、自分を責めてはいない。
僕はあまり過去は責めない。
僕は基本的に考えて考えて「こうするしかなかった」道を歩んで来ているから。
僕がいつも嫌いだ嫌いだと責めているのは現在の僕だ。
でも、祖父が亡くなるまでの間、早く死んでしまえと思ったこと、そして闘病中の会う度痩せ細っていく祖父を見るのが辛くて避けてしまったことは、重く僕の心にのしかかった。
僕は罪滅ぼしをするなら今しかないと思ったのだろう。
それで僕は祖父に冗談を飛ばし続けたんだと思う。
でも。
僕は祖父が亡くなった後、お通夜で、葬式で、多分誰よりも泣いた。
正直今も泣きそうだ。
僕は孫の中で誰よりも祖父と接点が多かった。
運動会も見に来てくれた。
実家に行くと、早起きするとホットサンドを作ってくれて、その為に頑張って朝5時に起きた。
祖父が2階から降りてくる足音が聞こえると、祖父より早く起きれた!と内心ガッツポーズをしていた。
祖父に笑顔で「早起きだねぇ」と言われるのが誇らしかった。
そう、僕は祖父が多分大好きだった。
でも祖父は死んでしまった。
闘病中の辛い時期に僕が祖父を避けてしまったのはもう変えようが無い事実だ。
後悔、後悔はある。
けど当時の僕はどうしようも出来なかった。
そして、思った。
死は理不尽だな、と。
僕の父は祖父が亡くなった後に「もっと生きたかったんじゃないかな」とポツリと言っていたらしい。
僕はそのことは母伝に聞いたのだが、急に父の背中が小さく感じて何か嫌だった。
父にはいつも偉大で、広い背中で居て欲しかった。
僕は正直ファザコンだし、まるで乗り越えられていない。
父のことを他人から責められてパニックを起こしたこともある。
僕は課題だらけの人間だ。
しかしその話はまたいつか、気が向いた時に書こうと思う。
徒然なるままに書いたのでいつもの様に話がとっちらかっているが頑張って纏めていきたい。
僕は理不尽な「死」に、憧れを持っている。
それは祖父を失って尚、いや祖父を失ったからこそ憧れを持っている。
僕は「死」を人間程度では抗えない絶対的な「力」だとでも捉えているのかもしれない。
絶対に克服できない恐怖の象徴。
だのに、僕は魅力を感じてしまう。
そして、自ら「死」を選ぶということが、僕は「死」への反逆のように思えてかっこいいと思ってしまうのかもしれない。
僕は多分、死を選べない己をやや恥じているんだ。
死ぬことばっかり考えている癖に結局生きている自分。
生きている癖に何も出来ない自分。
僕が初めて衝動のままに書いたブログ、その時に一番最初に出てきた言葉を載っけさせてもらう。
努力できないなら死んでしまいたい
僕の中にはいつも炎が燃えていて、その炎がしきりに言うんだわ
僕はストイックって言って貰えるけど僕にとっては全然全然そんなことはなくて毎日毎日妥協しまくりで
頑張らないことが凄く怖い
自分で決めた目標に届かなくなってしまうんじゃないか、自分で夢から遠ざかってんじゃないかって
本当に、もう泣き出しそうなくらい怖い
僕は何者でもなくてこの先も何者にもなれないんじゃないかって本当に本当に不安で
僕はこの文を削除してから「YouTube生配信を終えて」の記事として投稿した。
この文は僕の掛け値無しの本音だ。
努力できないなら死んでしまいたいのだ。
理想の自分になれないのなら死んでしまいたいのだ。
それなのにまだ生きている。
死ぬのが怖いから生きている。
お前はなんなんだよ。
という気持ちは常に僕の中にある。
まあ、要は。
僕は超激しいんですね。
「小市民的幸福」をなんかディスったかもしれないけど、「小市民的幸福で満足してその先何も得ようとしなくなってしまう」ことが怖いんだよ。
でもどうせ満足しないから恐れることも本当はないんだろうけどね。
そこはまだ僕の臆病さ、
いや、今ふと思ったけど置き去りにされている傷ついてきた小さい自分なのかもしれない
とにかくまだまだだ。
僕はまだまだ生きるんだろう。
死ねない自分を恥じながら。
自分の無力に失望しながら。
どうせそれでも「死」が怖い!というかっこ悪い理由で這いつくばるんだと思う。
でも僕は。
いいよ、今はそれで。
許してあげる。
三島由紀夫のWikipedia↓
三島事件のWikipedia↓