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  • 執筆者の写真太子

蜘蛛の糸の犍陀多の演技がクソ難いって話

※他所で書いたものだから一人称が「私」だし敬語だよ!

直すのクソだりぃからこのまんま上げるわ

この程度さ…一人称へのこだわりなんて

これからも中途半端な奴として生きていくわ畜生が

以下本文、僕の歪みが炸裂します


***


演劇講座で芥川龍之介の蜘蛛の糸を朗読するのですが、本当に難しいです

我を出してはいけないけれど、自分を殺してはならない

「自分の」感情を入れてはいけないけれど、「役の」感情に寄り添わなければならない


我が強い私にとってはかなりの難題です

ひとたび演技を始めたならば、自分の考えや感じ方、価値観までも脇に置かなければならない


蜘蛛の糸には「極悪人」の犍陀多が出て来ます

この「極悪人」を短い話で数回のセリフで表現しなければならない

表現すべきことは、"私"が感じたことではなく

伝えるべきことは、"芥川龍之介"の意図


蜘蛛の糸は仏法法話なのだそうです

つまり仏教の教えの「自分のことばかり考えていてはいけない」ということが伝わるように演じなければならない

だから犍陀多は物語の役目として「自分のことばかり考え地獄に堕ちた極悪人」でなければならないのです


しかし私はどうしても犍陀多が極悪人と思えないのです

私の価値観では根っからの極悪人というものが上手く想像出来ません


私は人は皆獣だと思っています

脳みそが発達した獣です

その発達した脳みそで、健やかに成長出来れば理性を獲得し、本能をある程度コントロール出来るようになると思っています

そうなれば、自然と必要以上に他人に危害を加えたくはならないのでは無いか

だって同種でコミュニティを形成する生き物なのだから、周囲に加害ばかりしていたら個体として不利なはずです

しかし健やかに成長できなかった場合や、元々脳みそに欠落した部分がある場合…

回りくどいですね、「サイコパス」の場合

私が先述した考えは適用されないと思っています


私だって健やかに成長したかと言われると、胸を張って「はい」とは言えません

他人を攻撃したくてたまらない時だってあります

だけどじゃあその衝動のままに無差別虐殺をおっぱじめるかというと違います

それは私が臆病で…そしてある程度の良識は獲得することが出来たから

これは本当に有難く、恵まれていることだと思っています

「道徳的価値観」…という言葉はあまり好きではありませんが、これを少しも持ち合わすことが出来なかったならば、人間社会で生きていくのはかなり厳しかったと思います


なので犍陀多は私から見ると


「成長環境が著しく悪かった人間」

「脳の問題で良識が欠落した人間」


のどちらか、あるいは両方にしか見えません

これは、私の価値観では極悪人には当てはまりません

というか私の価値観では極悪人という言葉に当てはまる人間は思いつきません


私は落ち込みが激しい時によくシリアルキラーや猟奇殺人者について調べるのですが、家庭環境が良かった例しがありません

有名な人物しか調べていないし、調べると言ってもWikipediaやネット記事を漁っているだけなのでそもそもの信憑性から…の話かもしれませんが…


多分私は「極悪人」の存在を信じたくないんだと思います

いや、正確に言うと「罪人の背景や事情を一切考えようともせず極悪人と決めつけ、そこで思考停止して大義名分を掲げて攻撃する人」が怖いのです

「極悪人」という言葉をさらりと使える人の中にはあるのではないでしょうか、


「こいつは地獄に堕ちて当然の人間だから何を言ったって良い」


という正義の御旗が。


それが何よりも怖いです


私は…、ちょっと違うお話になりますし、これもまたネットでですが…


「木に首を吊るされた黒人とそれに群がる白人、そしてそれを見ながら笑顔でカメラに向かって笑いかける少年」


の写真を見た事があります


古い白黒の写真でした

もしこの写真が捏造では無いのならば、そして写真と共に書いてあった説明が事実ならば、


「黒人奴隷をリンチするのが白人の娯楽だった時代」


が存在することになります


ではその白人達は極悪人なのでしょうか?

笑顔の少年も地獄に堕ちて当然なのでしょうか?


私は…そうは思えません

現代の価値観では圧倒的な「悪」です、当たり前です

私だってショックを受けました


でも

当時の価値観では?

場所は…どこだったのでしょう、アメリカ大陸のどこかだったかな…大事な部分を忘れてしまいました、すみません

だけど、きっと、当時のそこでは悪ではなかった


善悪って結局人間が後から作った物だなと思います

集団で生活する為に

そして小さい頃から植え付ける

子供の頃に染み込んだ物ってなかなか抜けません

環境によってはどんなに歪んで邪悪な教えでも、疑問を抱くことすら

教育って一歩間違えば洗脳なんじゃないか

おかしな教育を受ければおかしくなるのは当然です


私だって写真の時代に写真の場所で、「奴隷がいて当然、そしてリンチするのが娯楽で当たり前」の価値観とともに育ったならば


あの少年は私だったでしょう


…長々と書いてしまいましたし、差別的な表現やそうでなくとも私の無意識に持っている差別意識が出ていないかかなり心配なのですが…


何が言いたかったかって、


誰かを地獄に堕ちて当然だなんてあまり思いたくないんです


かと言って許し難い悪行と言うのはあります

しかしそれは「行い」であって「人」では…


分かってます、

私は甘いです

恵まれています

ね、


傷つけられたのが私だったら?

殺されたのが自分の大事な人だったら?


地獄に落ちて当然ですね、そいつは。


人を恨みもする、憎みもする、全身を怒りに震わすこともありますし、何度も何度も憎い奴を惨殺する妄想だってしてきました


毎日「死ね」とメッセで送りつけてやろうか

毎日猫の死体の写真でも送り付けてやろうか

いっそ包丁を持って殺しに行こうか


思ったことがあります


私は全然善人なんかじゃない

頭の中は最低です


だけどそれでも一応人間社会で生きていけてるのは、


「やっていいことと悪いことの区別が着いてるから」


これもまた「ある程度」ですけどね


矛盾だらけで歪んだ私が、「分かりやすい極悪人」の犍陀多を演じることは、やっぱりかなりの難題なのです

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うーんダメだ、ブログ依存性になっているのかもしれない いやここで依存性とか何とか言うのがあかんのだ 僕はそれだけ頭ん中が大忙しなんだ 僕の頭は閃きがとにかく止まらない それも別に大層な事じゃなくて絶え間なく何かを思いついたり何かに気づいてしまったりはたまた突然「降って」来たりする それを1個1個書き留めていたら正直キリがない 下らないことから僕のこれからの人生のヒントになりそうな事までとにかくぽこ

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